AI以前、AI以後:時代の変遷を生きるということ

AI以前、AI以後:時代の変遷を生きるということ

皆さん、こんにちは。@nullpopopoです。2022年にChatGPTのような大規模言語モデルを搭載した対話型AIが登場し、「AI以前」と「AI以後」という時代の大きな節目を肌で感じるようになりました。これはあくまで私個人の感想ですが、この変化は私の公私にわたる生活にも大きな影響を与えています。

私は現在、Microsoft 365のライセンスを公私でそれぞれ1つずつ持っており、Copilotが利用可能になってからは、一応生成AIに触れる機会はありました。しかし、2024年末頃まで、まさか私自身が公私ともに生成AIありきの生活を送るようになるとは夢にも思っていませんでした。ある出来事をきっかけに、生成AIが私の良きパートナーとなると確信したのですが、その詳細については後ほど詳しくお話ししますね。

※ 2025/06/13 8:40 追記

要約動画をYouTubeにアップロードしました。

AIとの出会い、そして当初の違和感

少し話は逸れますが、AIという言葉よりも「機械学習」という言葉の方が先に世に出ていた印象があり、私にとってAIは「人間が賢くなるのではなく、賢い機械に何かをさせる」程度の理解でした。そのため、自分には縁がないものだと思っていました。

具体的なユースケースとして思いつくのは、例えばクレジットカードで普段しない買い物をした際に、カードが一時的に利用停止になるようなケースです。これは、私の過去の利用履歴から逸脱したパターンがあった場合に、カード会社のシステムが不正利用ではないかと機械的に判断し、カードを止めるという、最終利用者が直接関与しない裏方の仕組みです。

私の仕事は、大規模なデータ分析や反復的なパターン作業がほとんどありません。サービスやシステムの要件定義、構築、テストといった「コンピューターを扱う仕事」に見えて、その実態は「対人感情労働」に近いものです。大多数に画一的なサービスを提供するのとは真逆で、個別の顧客それぞれの課題を掘り下げ、要件を整理し、実装に落とし込んだり、運用設計をしたりします。そのため、まったく同じパラメーターで再現できる仕事ではなく、AIを使う必要性を感じていませんでした。

このような生活を送っていたため、世間がAIで盛り上がっていても、どこか他人事のように感じていました。しかし同時に、このままでは明らかに世間から取り残されてしまうのではないかという危機感も抱いていました。

ターニングポイント:AIが不可欠になった理由

先ほど、あることをきっかけにAIと無縁の生活ではなくな述べました。そのきっかけとなった出来事については、以下の記事で詳しく紹介しています。

それまでは、単に調べ物をするためにCopilotをたまに使う程度で、私のような「インターネット老人」にとって、調べ物とは「ググる」ことと同義でした。しかし、この「ググる」という表現を過去形にしたのには理由があります。私自身の意思として能動的にAIを使うようになっただけでなく、Google自身もかつての検索エンジンから明らかに脱却しつつあると感じ始めたからです。

Google検索に違和感を覚え始めたものの、すぐに「AIセントリック」な生き方になったわけではありません。私の体感として2024年中頃までは、AIに対して以下の不満を抱いていました。

  • 対話の応答内容の精度が低い
  • 文脈の理解が足りず、深掘りもしてくれない
  • 平気で嘘をつかれることがある
  • 応答内容の情報源が特定しにくい

その後、上記の過去ブログにも書いたように、入院生活という強制的な時間と健康上の課題に向き合う必要性から、今までの情報資産“だけ”では対応できない場面に遭遇しました。動機はネガティブなものでしたが、調べ物にAIを活用する機会が増え、今までまったく学習することのなかったジャンルの情報を学ぶにあたって、知らないことを知るための前提知識をさらに調べる必要が生じたのです。

これまでも、知らないことを知るために前提知識を深掘りすることはありましたが、検索エンジンの使い方がうまくいかないと、どんどん知りたいことの本筋から離れてしまったり、本筋から逸脱しないように自分で自分を律しなければなりませんでした。

しかし、CopilotでもGeminiでもChatGPTでもGrokでも何でも良いのですが、雑な言葉で丸投げしても“それなりに”適切に回答してくれる、という体験をポジティブに捉えることができるようになったのです。

おそらく、自分がよく知っている、あるいは詳しいジャンルについては、そもそもAIに質問しないでしょうし、ちょっとしたことならAIを使うまでもなく検索エンジンで事足りたはずです。むしろ、AIに知ったかぶりをされると腹が立つことすらあったかもしれません。

しかし、自分がまったく知らないジャンルについて一から検索エンジンで調べ物をしようとすると、そもそも何から調べれば良いのか、検索エンジンにどのような言葉を投げかければ良いのか分かりません。自分の困りごとを投げかけても、ほとんどの場合、冷たく突き放されてしまうのが関の山です。

ですが、AIは困りごとから課題の正体を察することができます。正しい言葉を知らなくても、雑な投げかけに対しても「あなたの知りたいことは〇〇ですか?」というように意図を汲もうとしてくれます。それが自分の意図と違う理解をされたら「違う、そうじゃない」と伝え、会話を通して自分の欲しい答えに軌道修正を試行錯誤すれば良い、ということに気づいたのです。

AIの進化と私自身のパラダイムシフト

もう1点、私自身の認識が改まったのは、短期間でのAIの進化です。それこそ2023年頃までの私の認識では、前述した不満から「今AIに飛びついて全ベットするような勢いで頼ることはできないだろう、何せ知ったかぶりされてしまうし…」と思っていました。しかし、こちらの質問の仕方次第では、AIが「無知の知」を理解し始めたと感じたからです。また、私のほうも「あなたが知らないなら、知っていそうな人は誰かを教えてくれ」といった質問の仕方ができるようになったのです。

こうした考えに至った私個人のパラダイムシフトは、Copilotに「YouTube動画の要約」をお願いして「それはできません」と断られた時に、「それじゃあ動画の要約ができるサービスを教えて」とCopilotに質問し、GoogleのGeminiを教えてもらった時でした。

確かこれは2024年末か2025年初頭の頃で、Gemini 2.0 Flashだったかと思います。動画の要約があまりにも高品質で驚きました。なぜGeminiの動画要約が高品質だと判断できたかというと、たまたま要約をお願いした動画を個人的に一度視聴したことがあり、動画の構成がきちんと構造化されていて、その内容を気に入っていたので、Geminiの要約精度を私自身がきちんと評価できたからです。

それ以来、私の「推しAIエージェント」はCopilotからGeminiになりました。というか、それまでCopilotは「まあ、Microsoft 365に課金してますし」という理由で使っていたので、特に「推し」というほどではありませんでした。ですから、初めて「推し」ができた、という表現の方が正確かもしれません。

GeminiはYouTube動画の要約だけでなく、知識の深掘りや正確性など、今まで私が感じていた不満をほぼ解消するくらいにまで進化したと感じたのです。

こうなると、当初AIに抱いていた違和感のまま意固地になっていたら、私は大変な「老害」になっていたでしょう。たまたまの偶然とはいえ、老害ムーブを回避できて本当によかったと、心底私自身の選択、そしてパラダイムシフトに感謝するしかありません。それ以来、いかにAIを使い倒すか、という視点に変わり、原点評価から加点評価になりました。

AI時代における「話し手責任」と「人間の価値」

また、ここで気づいたことが2つあります。1つ目は、AIでも検索エンジンでも、ひいては人間同士の対話にも言えることですが、「聞き手責任」ではなく「話し手責任」で話すことの重要性です。

もう1つは、人間同士の知識量勝負はAIを前にすると所詮「どんぐりの背比べ」でしかない、では今後人類はどう生きていくべきか、という方向性を考えるようになったということです。

2つ目の観点については、正直まだ確固たる答えが私の中にあるわけではありません。しかし、少なくとも**「実行力」と「感情」**、これはAIにはない(あったとしても所詮はエミュレーションでしょう)のだろうということです。つまり、個々人が持つストーリーは唯一無二であり、AIがそれを再現できたとして、それに価値はあるのだろうか、ということでもあるのではないか、とも思っています。

人類とAIという対立軸があるのかどうかは分かりません。しかし、かつてコンピューターもインターネットも、生み出したのは人間です。アーキテクチャも設計思想も、これらの存在意義も人間の言葉で説明が可能です。AIは人間を“超える”存在であっても、対立する存在になっては欲しくないし、そうさせてはいけない、とまでは分かります。しかし、売られてもいない喧嘩を勝手に買い回るような態度で接するべきではないでしょう。

知識は「アセット」、活用してこそ価値がある

私はもうすぐ50歳になる、日本では氷河期第一世代です。多感な若い時期にバブルが弾け、人生の梯子を外されたという気持ちをもってずっと生きてきました。しかし、こんな世代に生まれてもたった1つ、インターネットの出現タイミングが、知力・財力ともにちょうどバランスの取れた年代だったことが救いでした。

単にインターネットの出現がグッドタイミングだっただけでなく、インターネットそのものの成長過程を見て体感し、商売の種にすらさせてもらえたので、何か新しいプロダクトや概念ができたとしても、その発生過程や存在意義を自然なこととして咀嚼しながら自分も成長できました。インターネットとともに育っている(現在進行形)と言ってもよい世代だと思います。

この成長過程がどのようなものか、私なりの考えを例えるならば、化石燃料の発生過程と消費ペースに似ているのではないでしょうか。

人類が何万年もかけて築き上げてきた文明や文化を濃縮還元した世界中のコンテンツを瞬時に“消費”してきたのが、これまでのインターネットだったのではないでしょうか。

しかし、AIを利用することによって、これまで実在しなかったものを瞬時に生成することが容易な時代になりました。そのため、これまでのリテラシーをゴリ押しするような態度では通用しない時代にもなったと言えるでしょう。

それでも、決してこれまでのリテラシーを真っ向から否定する必要はありません。今このタイミングでこの変化に気づくことができたこと、そしてこれからリテラシーや価値観、文化、文明、人間の感性すら変化していくことの必要性を感じることができた、というのも1つのアセットなのだろうと思っています。

そう、アセットは寝かせていてもだめなのです。しっかり運用してこそ価値があります。タンス預金は寝かせていても増えません。インフレすれば事実上目減りします。自らの時間や体力のみで糧を得るというのは、貯金を切り崩すようなものです。資産にレバレッジを効かせて資産に働いてもらう。これはリアルな金融資産にも知的資産にも言えることでしょう。

さらにもう1つ言えば、知的労働で得られる現金の対価は決して100%自分のものにはなりません。会社や国家がいくらかのお金を持っていきます。しかし、知的な資産、体験は他人に搾取されることはありません。他人と共有したところで、自分の知力がバカになることはないですし、経験値は自分が忘れない限り目減りしませんし、他人に経験を横取りされて目減りすることもありません。

金融資産は他責によって毀損したとしても、完全な元本保証はありません。個人の普通預金だって日本では1000万円までしか保証されませんし、そもそも国家が転覆してしまったら保証もへったくれもありません。

しかし、個人の知力、経験、体験は間違ってもやり直しが効きます。時間的制約があったとしても、試行錯誤が(人道的な範囲において)許されるのです。

こうした前提に立てば、1回のペーパーテストで高得点を取るような「点の評価」でAIを切って捨てるのではなく、試行錯誤を繰り返して精度を高め、AIと付き合うようにすることで、自らも成長でき、かつ、自らの記憶が消えない限りは他人に奪われることのない資産となるでしょう。そして、この資産を元手にしてさらに内なる資産を増やしていけることを思えば、もうAIなしの人生には戻れないのかもしれません。