インプレゾンビと承認欲求についてのどうでもよい考察(お気持ち)

インプレゾンビと承認欲求についてのどうでもよい考察(お気持ち)

よくTwitter (𝕏)でバズったツイートにインプレゾンビが沸くのは昨日今日に始まった話ではない。手動でチマチマリプをつける奴もいるかもだが、大抵はAIが元ツイの文脈から判断してそれっぽいリプをつけようと頑張っている。 もちろん、元ツイの主なんてそんなリプ見る気もなければ何なら邪魔でしかないので、インプレゾンビの目的は自らのインプレッションを稼ぐことしかなく、その先には「高インプレのワイのツイを見ろ」か「高インプレのワイのアカウント買わへん?」のどちらかだろう。

一方で元ツイ側の立場に立って考えてみると、狙ったツイであれ意図せぬバズであれ、炎上でなければ承認欲求が満たされないといえば嘘になるだろう。そこにポジティブなリプがついていようものなら、あるいは仲間うちから「お前バズってんじゃん」とかリプがつこうものなら、かったるそうにはするものの全くの拒絶を示すわけではないはずだ。

しかし、この承認欲求に対してインプレゾンビは1mmも寄与していない。なぜならば、元ツイの文脈を(機械的に)判断して「きっと元ツイ主が望むリプはこうだろう」と機械的にリプをしたところで、真面目に読まれることは皆無に等しいだろうし、仮に真面目に読んだところで元ツイ側も真面目にリプするわけがない。

かつて私はインターネット草創期の頃だと記憶しているが、非アダルトの自動応答チャットに如何にエロいワードで返事をさせるかに心血を注いだことがあった。Siriみたいにすぐピシャリと「そんなリプできません」みたいに怒られることがないので、延々と暇つぶしができたのだ(アホですねえ)。

インプレゾンビにリプをするのは、それくらい不毛なことだと誰もがわかっているので、だからインプレゾンビは相手にしないのだ。まれに、携帯ショップでTwitter (𝕏)アカウント作ってもらったような中高年がインプレゾンビにリプしたり挨拶したりしているのを見るが、なんかもうそっとしておいてあげようとすら思う。

それでは、ニンゲンがどのようなリプを望んでいるかを考えてみたいが、私が思うに、結論から言ってしまうと「共感」と「行間」の掛け算ではなかろうか。

まず共感に関しては、見えている文脈からある程度推察できて、ここだけを機能としたのがインプレゾンビであろう。しかし、インプレゾンビは行間が読めない。だから”誰でも言える”読む価値のないリプしかできないのだ。

では、行間とは何ぞや?そもそも書いていないことをどう判断しろと?と疑問がわくが、いわゆる社会生活を滞りなく送ることができている人間にとって行間を読むことは何ら問題なくできているであろう。例えるなら、相手が何をして欲しいか推し量ったり、逆にして欲しくないことをしない、地雷回避能力のようなものだ。これを暗黙のうちに認知して行動に落とし込む能力のことだと言っても差し支えないのではないだろうか。

そう、私くらいのインターネット初老世代はきっと聞いたことがあるであろう台詞、「空気読め」「半年ROMれ」ってやつだ。これの応用が「うそをうそと見抜ける人」ってやつだ。この3つを字面どおりに受け取ったとして、きっちり半年後にクソリプつけようものならおとといきやがれと追い返されるのが関の山だし、きっとそいつは将来タイムマシンで過去に戻れるようになったとして2日前に現れて「きました」とだけ言うに違いない。この空気の読めなさっぷりはまさに今のAIインプレゾンビとまったく一緒ではないかと思う。

さて、クソリプをつけられる側の立場で考えてみよう。彼らは大なり小なり承認欲求を満たしたいか、あるいは𝕏以前のそもそものTwitter本来の目的である「公衆の面前だろうが構わず独り言をつぶやく」を正しく機能させたいかのどちらかなのだ。後者を満たすのは簡単だ。何もリプをしなければよい。そっとfavるか、何ならfavすらつけずにブクマするとか非公開リストに入れてニヤニヤするか、どっちかをすればいいだけだ。

しかし、相手の承認欲求を満たしてあげたいみたいなお節介にかこつけてリプをつけたい、ということもあろう。何せSNSなのだから。意図してクソリプぶつけたいなら、それこそ何も考えずにリプをつけるだけでよい。肯定的なリプであれば共感すればよいだけだし、喧嘩ふっかけたいならどこかしら不足や欠点をあげつらって煽ればよいだけなのだから。しかし、公然と喧嘩を売って勝てるかどうかは別問題であるし、ふっかけた喧嘩に公衆の面前で負けることほど惨めで恥ずかしいことはない。

それでも、行間まで読んでクソじゃないリプをつけるのは至難の業である。いや、世間のマジョリティはこれを(表向きは)滞りなくできているらしいが、私はそうもいかない。単に相手への共感を示したところで、それが相手の望まない共感であったら、どんなにこちらに悪意がなくとも、むしろ善意のリプであればあるほど、クソリプ認定されてしまったときの心理的ダメージを負ってしまうのだ。このような不幸を回避するには、共感と行間の掛け算をしなければならない。行間、つまり相手の個々のツイに対するバックグラウンド、あるいは相手そのものの人格やセンスもバックグラウンドとして考えなければならない。

私が好きでよく人生の参考にしているWEBサイトに、健常者エミュレータ事例集 というサイトがある。いわゆる精神的に健常な人が当たり前に、それこそ結婚式の芳名帳にスラスラと署名するかのようにできていることが、いちいち「止め」「はね」「はらい」を意識してどうにかミミズがのたくったような字を書き上げてしまうみたいに苦労する界隈の知見が5W1H という型で積み上げられている。

このように、自らの体験や反省、学習をもとにした暗黙知の形式化はインプレゾンビにまだまだできない芸当だし、AIは見えているものの成否を判断せず(できず)に学習しているが、人間はある出来事をポジティブなものかネガティブなものかをまず分類して、成功事例なのか反省なのかに落とし込んで学習するぶん(現時点において)人間がAIに対してアドバンテージを持つのではなかろうか。なので、単なるファンクションとして人間が機能することは今後難しくなっていくであろうけれども、人間と人間との関係性に立脚したビジネスには、まだまだ勝ち筋とまでは言わないものの、ワンチャン生きのこる道はあるとは思う。

まとめると、私は普段人の手料理を食べないんですが、たまに人に作ってもらったご飯を食べるとその人の味付けの特徴を覚えているので「あ、◯◯さんの味がする」と言ってキモがられたことがあります。今日も結婚できなかった。

以上です。